コヴァセヴィッチ楽派宣言 11 ディアベリ変奏曲

●No.6『ベートーヴェン/ディアベリの主題と33の変奏曲』
ディアベリのワルツによる主題と33の変奏曲ハ長調Op.120
PHILIPS SEX7806 839 702LY 1968年プリント
今でこそ、若いピアニスト、キャリアの浅いピアニストも平気で取り上げるようになっているが、1960年前後、バックハウスやゼルキンなど高齢の尊敬を集める大演奏家がやっと弾くことが可能になる秘曲とされていた。まだ、秘曲という言葉が使われていたということ自体信じがたいが。
彼はヘスに師事するために渡ったロンドンで21歳の1961年、ウィグモア・ホールでのデビューリサイタルで取り上げている。キャリアのない演奏家がこの曲を取り上げること自体、冒涜的に受け止められたのではなかっただろうか。この例外的な規則破りの成功を受けて、急速にキャリアを拡大し、61年のエディンバラ音楽祭でバルトークの第2番の協奏曲(C.デーヴィス指揮)のセンセーショナルな成功。さらに翌年のプロムスでベートーヴェンの第4番の協奏曲(同)、ロイヤル・フェスティバルホールでふたたび『ディアベリ』を取り上げて確固たる地位を築き上げたとされている。
この成功に刺激されたのかブレンデル、ピーター・ゼルキンとつづき、最近はウゴルスキー、アンデルジェフスキーと意欲的なアルバムが登場するようになった。
この大曲に妄りに挑んではいけない、というのは理由がないわけではない。まず、バッハの『ゴールドベルク』と並ぶ規模の大きさ。変奏内容が複雑多岐に渡ること、きわめて抽象的であること。全体のパースペクティヴを得るだけでも大変で、ラクラクと楽しませる域に到達するのは並大抵のことではない。その意味で、かつて大家だけに許された曲、というのはあながち無意味な制度的特権というものではなかった。
このLPジャケットの写真はまだ童顔を宿している。デビュー当時、おそらく天才小僧といった風貌で、鮮やかに淀みなく大曲を弾き切ってしまう姿に聴衆はわが目わが耳を疑ったのではないだろうか。
ここに再現されている驚きは、誰もが挑戦するのを知った後なので当時の何分の一かに縮小されていると思われるが、それでも、音楽の多彩さ、雄弁、リズムの切れの良さ、一曲ごとの形の明確さ、全体の見通しの良さ、そして何より、音楽の分かりやすさ愉しさが頭抜けている。
タッチの柔らかさ、音色の丸さのせいで長く聴いていても疲れない、というメリットの下に、主題と33の変奏が隈無く性格付けされて、50分超の長丁場を一気に聴かせる楽しさに溢れているのだ。一聴してオーソドックスに弾いているだけに感じてしまう。しかし、丁寧にこの演奏に付き合っていくと、極端なテンポの上げ下げは一切ない代わりに、メロディーの頭と尻尾で微妙な揺れ、強弱の差を付けることで、その変奏の核心に一気に引きずり込む技を備えていることが分かる。変奏ごとの個性を最大限に引き出しているにすぎないので、コヴァセヴィッチの手柄であることを見失いがちになるけれど、面白さの最大の要因はそれぞれの変奏ごとのリズムの扱いの上手さ、どの変奏も、静かなものも律動的なものもどちらも見事にイキイキと匂い立つように動き出すのだ。この性格のおかげで、抽象的な難物であるはずのこの曲が親しみ易い相貌に変身している。
そしてさらに、コヴァセヴィッチの演奏は楽しいだけではない。
ベートーヴェンはディアベリのつまらない主題をいじくっている間にどんどん面白くなったようで、後半になるほど熱の入った変奏を作っている。終盤、第29変奏以降の精神的な深さは相当なもので、第31番のソナタのカンティレーナを思わせるところすらある。大作曲家の晩年の精神的な高み、深みを表す音楽に若い演奏家は真剣に臆することなくしっかり別け入って行く。思えば、コヴァセヴィッチはEMI時代にすでに、28番、30番のソナタを録音している。このあと、ブラームスの晩年の小品も取り上げるだろう。ショパンの晩年の作品も。
変奏曲はピアノのテクニックを見せびらかすショーピースの性格も持っているが、ベートーヴェンのこの作品は、そんなことより精神的な表現が求められる。コヴァセヴィッチもテクニシャンであることは当然のこととして軽々と通過して、音楽の感情表現をいかに深いものにするかというところに、ピタリと照準が合っている。当時の常識を覆して、デビュー曲にこの曲を選ぶことが許されたのは、曲が表している感情に左右されて身も世もなく乱れてしまうのではなく、はっきり反応しながら耐え抜く力、自分が出した音をじっくり聴き取って、より崇高な次の一音を打つことができる老成したピアニストの資質を持ち合わせていたからだ。
ここでも、第29変奏での音楽の深まりの素晴らしさ。感情は深く、さらに深く掘り下げれていくのに、音楽の姿は泰然として動かない。長くコヴァセヴィッチが日本のプロの評論家から等閑視されてきたのは、まさにこの一点にあるのではないだろうか。最高の音楽を奏でるということは、その演奏を聴き取り理解するためには、その演奏の正味の時間しっかり身を投げ出さなければならず、さらに頭を整理するのにそれ以上の時間を必要とする。音楽にかぎらずパフォーミングアーツの評論はこのようなディレッタント的な、非生産的な所業の果てに成立するものである。これでは残念ながらプロとして食べて行けない。もっと大量生産方式で書き捨てて行かなければならない。プロはあらかじめ、曲のあるべき姿を決めていて、その枠にどれだけ納まっているか、はみ出しているとすると、どれほど奇矯であるか、説得的なキャッチフレーズを付けられるか、判断しているのはそれだけだ。彼らが、コヴァセヴィッチの演奏を精神の緊張の持続なく、漫然と聴いていたら、聴こえてくるのはオーソドックスだけどスケールの小さなピアニストの音だろう。彼の音楽の盛り上がり、クライマックスの鼻息荒い打鍵は、緊張の持続があってはじめて理解できる体のもだからだ。さらに、彼らはデュプレをバレンボイムに取られた、アルゲリッチともうまく行かなかった人間的な魅力に乏しい演奏家と判断して、自分の評論キャリアを飾るに相応しくない駒だと早合点したに違いない。
ともあれ、コヴァセヴィッチは20代にしてすでに熟成したピアニストであったことをこのLPは如実に示している。さらにつけ加えるなら彼のユーモア感覚だろう。第22変奏。例のドン・ジョバンニのレポレロのテーマが闖入してくる部分。夜も昼もとテーマを歌って、ズリ上げていくところの可笑しみが、歌詞なしでピアノの音だけでしっかり伝わってくる。これは表現力の証明にもなっているが、本人にユーモアの感覚がなければなしえない表現だ。ベートーヴェンの大曲を前にしてゆとりのある演奏家なのである。