コヴァセヴィッチ楽派宣言 5 コヴァセヴィッチの流儀

コヴァセヴィッチの流儀

 まず第一の特徴は音色。深く重いタッチから生まれるズシリとした低音。明るく豊かな中音、キラキラと輝くような高音。音色美に恵まれている。とくに低音に顕著なのが、一度押し込んだキーがズンと跳ね返されてくるような柔らかく力強い弾力があること。このことから、二つの決定的な個性が生じて来ている。
 一つはタッチの瞬間がややボケて、時間的に幅があること。対極にあるのがポリーニのピアニズム。物理的な時間軸にパルス信号を打ち込んでいくような徹底したデジタル時代の音楽感覚である。対して、コヴァセヴィッチのピアニズムは彼のタッチの操作によって時間の流れを変えることができる。時間の伸縮を伴った音楽を選びとっているのである。
 もう一つは、弾力を得て跳ねることが前傾姿勢の推進力となっていること。前へ進む力があることによって、音楽は今ここで生まれ、生命力にあふれた瑞々しさをたたえることになる。もう一度ポリーニを参考にすると、彼の音は完全に垂直の動きであって、平面図の上に一つひとつの音がまっすぐ屹立している。音楽は前進するものではなく、止まった音楽を外部からパースペクティヴとして睥睨するものとなっている。
 対照的にコヴァセヴィッチの音楽は縦より横の意識が強く、リズミカルな舞踏であり、息の長い歌となる。

 こう書くと一時代昔のロマンティックな演奏と同根の音楽と理解されるかもしれない。しかし、1940年以降の生まれでそようなナイーブなアプローチ姿勢を残しているのはアルゲリッチ、ゲルバー、フレイレらの南米勢に限られるのではないだろうか。すでにギーゼキング、カサドジュ、バックハウスなどの世代から即物主義の考え方が行われていたのだし、22年生まれのミケランジェリはポリーニに先駆けるような時間軸に沿った音響空間の構築と徹底した音色美の追求を行った。32年生まれのグールドはステージを去り、聴衆とのコミュニケーションという絶対的な命題に疑問符を突き付けると同時に、テンポを恣意的に設定することで、作曲家の意図を離れた音楽の可能性、複数勢(一つの曲にまったく異なる複数のテンポ設定)を体現してみせた。この二人の出現のあと、誰が音楽にたいする意識的な態度を明確にすることなく演奏できただろうか。
 エッシェンバッハは悲観的な美意識で、バレンボイムはフルトヴェングラー風の激情の振幅運動でドイツ本流のロマンティシズムに復帰できると考えたようだ。
 一方で、バルトークを教材として育ったラーンキ、コチシュ、シフといったハンガリー勢、メシアンを教材にしたカトリーヌ・コラール、ベロフ、ジャン=ロドルフ・カールスといったフランス勢が席巻しようとしていた時代である。

 コヴァセヴィッチのタッチの選択が無自覚なものであるはずがない。しかも、すでに演奏活動を開始していた彼は18歳になって自らマイラ・ヘスに弟子入りして最終的な研鑽に励んでいる。大人の演奏家としての歩む道、最終形に向けて何が必要なのか明確に意識しての弟子入りだったにちがいない。
 では、マイラ・ヘスとはどのような演奏家だったのだろうか。
 コヴァセヴィッチの10代の演奏は残念ながら記録が残っていない。今後、放送録音などにプレミアが付くような人気ピアニストになる気配もないので、古い録音が掘り出されてくることもないだろう。想像するに、激情に任せて弾くタイプ。子ども頃のアイドルがホロヴィッツでありラフマニノフだったとも語っているし、グールドから公開演奏に向いていない、と言われた経験もあるようだ。精神的なコントロールの難しいタイプなのだ(本人はタイプライターを打つようだったと述べているが)。
 さて、マイラ・ヘス。彼女は戦時中、空襲にたじろぐことなく慰問演奏会を開きつづけ、傑女と呼ばれ、デイムの称号も手にしている。音楽はその強いイメージとは裏腹に静かで優しさに満ちていることが第一の特徴となっている。残されている録音ではベートーヴェンの後期のソナタ、シューベルト、ブラームスなどを取り上げており、そのレパートリーをコヴァセヴィッチがそのまま踏襲していることが分かる。
 バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』のピアノ用編曲で名を残しているということからも、彼女がヒューマニティ溢れるタイプであり、心に沁みる抒情に特徴があることは想像に難くなかった。じっさいに録音を聴いてみると、たとえばシューマンの協奏曲では、開始のトゥッティこそffで入るが、以後終始必要以上に音量を追わない。mf以下の音量で息の長い歌を静かに歌いつづけている。構造上、大切な箇所に向かって高揚していくというのではなく、歌が次第に盛り上がって気が付いたらクライマックスを形成している、といった趣の音楽だ。ベートーヴェンの30番のソナタなど、コヴァセヴィッチの若いときの演奏と瓜二つ。テンポも音量設計も、めざしてる情感もほとんど同じ。彼女のコピーのような存在だったことがわかる。第3楽章、変奏曲のとめどない歌、静かな瞑想性、深い息づかい、そのすべてがコヴァセヴィッチに受け継がれている。
 写真で見ると彼女は大柄で逞しい手をしていたのではないかと思われる。ズシリと重いタッチで弾いている。コヴァセヴィッチは比較的小柄(170㎝余)で、手も小さい。ただ、鍛え込まれた太い指と分厚い手の平を持っている。師匠の太く分厚い音色を真似て鍛えられたのではないかと想像する。その手が鍛えられるとともに師匠の音楽のひと襞ひと襞が彼の脳裏に完璧に焼きつけられて逃れられなくなっているのではないだろうか。
 弟子が唯一いまだ到達していないのは、彼女の看板となった『主よ、人の望みの喜びよ』にみられる、すべてを許した温かみ、包容力てある。彼の演奏にはどこか心に痛みを与えるトゲが隠されている。アンコールピースとして弾いてもよさそうなものだが過去の来日公演では取り上げることがなかった。

 コヴァセヴィッチは力強いタッチを持っている反面、作り出す音楽は繊細を極める。mf以下の音量で歌うということも、その一つの表れで、小さな変化の中に音楽の表情の変化を明確に刻んでいくのだが、タッチ、ペダルの効果を最大限に使うことで音楽の陰影、色彩が微妙に変化し、すべての音符が静かに、しかし雄弁に語りはじめる。師匠ヘスが得意とした技だが、弟子のほうがさらにタッチが多彩で、より能弁であり、多弁になっている。
 静かな音楽のなかに言いたいことがいっぱい詰まっているために、聴くほうも緊張を強いられる。それに耐えられない人は「神経質すぎる」といい、静かな興奮を感受できなかった人は、その後に来る強烈な打鍵、それまでの流れを断ち切るよう間投詞的なフレーズを「唐突だ」などと評することになる。
 彼の音楽をすべて聴き取ろうとするなら、過去の演奏解釈と照らしてどうか、といような批評的な聴き方ではフレーズごとに緊張が解けてしまい、彼の音楽の最大の特徴である“持続”を見失うことになる。彼ら評論家は総じて、音楽を構造的に理解して、和声展開の分析、楽段、フレーズ、小節ごとに区切って、それぞれの意味付けをすることに夢中になっている。音楽を全体として捉えず、部分の集合として規定しようとする。全体の意味については作曲家が絶対であり、作曲家がその曲をどのように表現したかったかが先験的な命題だと決め込んでいる。
 しかし、音楽の演奏がそのような決まりきったものであるのでは、あまりに寂しい。演奏家は作曲家の僕ではないし、聴衆も作曲家、演奏家の二重の僕ではない。それぞれが独立した価値観でぶつかりあうことで、はじめて音楽の創造は活性化される。18世紀から19世紀にかけて、聴衆に力があった時代の音楽がもっとも需要が大きいことは、怠惰な習慣的消費でもなければ、単なる偶然でもない。作曲家が芸術家としての自意識に目覚めた時代であり、演奏家を兼ねていたこと、また専業の演奏家も独立した音楽家として作曲家から自由な存在であり、アレンジが許されていたし、作曲家の側に著作権の意識も薄かった。聴衆はパトロンでもあり、音楽家たちよりむしろ上に立っていた。それぞれが自立、独立することで、優れた音楽が生まれていたのだ。音楽はもう一度、このような関係に立ち返らなければならない。そのためには評論家は作曲家の虎の威を借りるような言辞を弄していてはだめで、印象批評と蔑まれたとしても、自分が何を感じ、何に感動しているのかを伝える初心に戻らなければならない。高みに立つ裁定者であってはいけない。専門知識が必要で難しいように思えるが、先験的に何がいいか悪いか決定しているような批評ほど安易で無意味なものはない。聴衆も演奏家も権威を匂わせる評に出会ったら眉に唾することだ。

 閑話休題。

 コヴァセヴィッチの演奏を朗読型と名付けたい。
 朗読は、地の文章を読む客観的で落ち着いた語りの部分と、登場人物の科白を演じる部分とがある。演じる部分では主観的な成り切りが求められる。朗読家は物語のすべてを知る者として、全体のバランスを重んじた端然とした平静な語り口が求められる。一方で、未知の読者にこの先を期待させる躍動感と先を読ませないサスペンスフルな不安定感も求められる。物語は淡々と落ち着いた調子で進められているかにみえて、つねに新たな展開にさらされる興奮にみなぎっている。
 コヴァセヴィッチにおける客観性は、縦の軸がぶれないこと。上下に積み重ねられる音については恣意的にずらされることがない。いびつな変形を感じることがなく、落ち着いた語り口のベースとなっている。
 彼の音楽はmf以下の微妙な変化で聴くものを音楽に静かに引き込んで、ジワシワと興奮を植え付けていく。彼自身も聴衆の一人であって、弾きすすめるにしたがって興奮がつのり、クライマックスで圧倒的なパフォーマンスを演じることとなる。その一瞬に、語りの間じゅう、耐えに耐えて来た感情が迸り出る、その準備のために長大な精神的な緊張の持続が必要であり、彼はそれを作り出すことに長けている。
 彼は微妙な緩急の差、強弱の差、タッチの差、音色の差などを総動員する歌の上手さで、つねに音楽を前へ前へと進める力がある。前のめりのリズムも推進力の大きな要因。計測したわけではないが、ひょっとするとリズムアクセントの次の音がかすかに短く、跳ねるようになっているのかもしれない。いわば促音便のように。
 これらの語りの基本テクニックの上に、主観的な感情吐露、登場人物に成り切った演技が展開される。
 コヴァセヴィッチの主観性はタッチが分厚く、物理的な時間スケールから最初から除外されようとしていること、自分の音を深く心に吸い込んで、次の音を吐き出すので、時間がつねに伸縮していること。これは端的に外的な時間によってコントロールされているのではなく、内的な時間にしたがっていることを示している。音楽は分析的に研究されたものではなく、くまなく体験されたものだ。当然、何度も何度も弾き込まれて知り尽くされている音楽のはずなのだが、いったん弾きはじめられると、それは今そこで生まれた音楽のように生き生きと流れ出す。前段でも言ったように、自分が弾いた音を自分でしっかり聴き取りながら、次に待ち構える音を観察して、その感興を伝える実況レポートのような音楽でもある。つねに前にある音が後に来る音を規定する。全体構造を踏まえた小賢しい音楽ではなく、いま、この瞬間にすべてをかけた生身の音楽。だからこそ、録音を通じてすら毎回、新鮮な感動が待ち受けているのだ。
 主観性の華となる感情吐露の場面では往々にして彼の鼻息も同時に録音されていることが多い。それはさておき、地の語りでジワジワとゆっくり高められた頂上での雄叫び、あるいは奈落の底での呻吟、その一瞬にすべてが放出される。静かな語りに引き込まれた聴衆も同時に体験することのできるカタルシス。それは外からの刺激として押し付けられるものではなく、聴く者の内側から起こってくる高揚と感じられるため、録音された音源であるにもかかわらず、予定調和の退屈さに陥ることなく、何度でもライブの感動を味わうことができるのだ。
 コヴァセヴィッチ、まったくもって稀有のピアニストである。


 ベートーヴェンのピアノソナタの全集録音の途中から、生来のヴィルトゥオーゾ嗜好が表れはじめ、齢60歳を越えて晩熟の季節となったのを知らぬかのように、かつてよりテンポを上げ、速いパッセージで見事なテクニックを見せつけるようになってきた。最新の『ディアベリ』でも、すばらしくパワフルで闊達な音楽世界を展開している。かつての触れれば血を吹くように張り詰めた緊張、繊細でひ弱なイメージを脱している。技術偏重のようでいて、相変わらず瞑想的な音楽ではあるけれれど、情緒性よりむしろ哲学性を深めたように聴こえる。今後、どこまで精神を深めていくのか、ますます注目を止められなくなって来た。