バッハ『ゴールドベルク変奏曲』の演奏比較

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93.『ゴールドベルク変奏曲』

 グールドが録音して以来、人気曲の仲間入りを果たした。元々、退屈な長い曲という認識ではなかっただろうか。以降でも、不眠症のゴールドベルクのための変奏曲で、クラヴィコードという音量の小さな楽器用に書かれたという周辺情報が必須だったように思う。グールドの最初の録音から50年。そこから、いかに楽しまれるべき音楽に変身してきたのだろうか。

リヒター グールド旧 グールド新 ティーポ シフ ペライア シトコヴェツキens

●リヒター。チェンバロで弾いている。テーマをごくゆっくり始めて、第1変奏から急緩急緩の繰り返し。弦曲のクラヴィコードの可愛らしさに近付けようとしている部分も。音色の変化が乏しい(リュートストップを使ったりもしているけれど)のと、重奏部分ではガチガチャとうるさく聴こえて、チェンバロの限界を感じてしまう。
●グールド旧。有名になったノンレガート奏法で素っ気無く弾き進めるのだけど、音と音の間の無音の空間がエレガントに響きはじめる。声部がメロディーとして繋がるのは、各声部ごとに、微妙な音色の差を設けていること、そして、レッテルに相違して部分的にレガートを使う巧妙さがある。遅速の変化が絶妙で、ビート感のあるリズムが音楽を生き生きとした生命力溢れるものに変えたことは間違いない。
●グールド新。グールドの演奏は徹底した方法論の魅力が大きいので、一度録音してしまうと、再録の意味はほとんどないと考えてしまう。しかし、不可能と思われた再録をデビュー盤にたいして行うとは。しかも遺作になってしまうとは。劇的な演出の好きな演奏家だっただけに、意図的な死ではなかったか、と勘ぐりたくなってしまう。
 異常にゆっくりしたテンポが基本になっている。かつて追い出したはずのねっりとした抒情を呼び戻すための念仏なのか、本人の執拗な歌が聴こえてくる。方法論は大きく変わったわけではないのに、遥かに音楽が豊かになっている。一音一音ごとの強弱変化が繊細で巧み。
●ティーポ。グールド以降の価値観によってクローズアップされた演奏。ロザリン・テューレックなどと並ぶ軽快でスタイリッシュなバッハ。でも、所々、不徹底なところがあり、情感を盛り込もうとするために、行き惑う音がある。
●シフ。グールドのビート感に柔軟な歌の魅力をプラスしようとしている。トイピアノ的な可愛らしさをとりいれたりの工夫もある。対位法の魅力は乏しい。立体感がつぶれてペシャンとなった貧弱さがどこか感じられる。
●ペライア。レガートで情感豊かに歌い上げる。一曲ごとの彫啄が見事。勢い込んでみせたり、たゆたいを見せたり。鋭いリズム感、ビート感を出すこともある。複雑な曲面をえぐり出してみせた。鮮やかで美しい。
●シトコヴェツキ。彼自身の編曲。弦楽三重奏用もあるけれど、これは弦楽合奏用。テーマの歌謡性を存分に味わわせると同時に、3声の音色の違いが音楽を立体的、なおかつカラフルに感じさせる。そして合奏の魅力は何といってもトゥッティの迫力。

 この曲はどうしても長いというイメージが離れないけれど、シトコヴェツキのようにまったく自由なアプローチを試みるものを輩出するようになってきた。ペライアの自由な演奏はグールドの呪縛からも解放され、ピアニスティックな視点から、音楽を磨いている。これだけの変化を得るために50年近くもの歳月が必要たった。いかにグールドが天才であったかが分かろうというものだ。