シューマン『交響曲第2番』の演奏比較

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シューマン

 この作曲家については狂気を語らなければならない雰囲気になってきている。はたして本当にその必要があるのだろうか。彼が精神病院で廃人となって死んだことは事実。しかし、問題は作品に狂気の影を見る必要があるかどうか。
 『謝肉祭』や『ダヴィッド同盟舞曲』などに登場するフロレスタンとオイゼビオという二つの人格。これによって安直に二重人格や分裂病(乖離性障害)などと決めつけたがる。いくら本人が後年、本当に精神を病んだからといって、すぐには結び付けられない。その病態が詳しく論議されたわけでもないし、その時代多くの作家、芸術家が精神を病んだ社会背景とともに論じられてもいないし、その病態比較もなされていない。
 たとえば、『謝肉祭』のような二つの性格が毎回入れ替わる作品はショパンの『前奏曲』や、古く遡ってバッハの『平均率』など枚挙にいとまがない。音楽における当たり前の論理構造とも言えるもので、これを短絡的に二重人格に結び付けるのは軽率だ。
 シューマンの音楽で驚くべきことは、一つのテーマを提示している最中に、伴奏音型であるべきはずのものが、すごく性格的でテーマに負けない個性を持っていること。言い換えれば、一つのことを言い終わらない間にもう、次のことをいい始めている多弁さ。テーマが溢れ過ぎていることだろう。あまりにも濃密な音楽。それがシューマンだと思う。

59.『交響曲第2番』

 『ライン』や『春』のような名前付きの作品に押されて人気のない作品だった。風向きが変わったのはシノーポリの演奏が出てからではないだろうか。第3楽章のアダージォの魅力で、一気に挽回した感がある。筆者もその例に漏れないが、聞き返してみると、魅力はそれだけでないことがはっきりする。ほかの3つの交響曲と比べても、テーマやさまざまな音型が特徴的で個性が明確だ。ところがあまりに言いたいことが詰まり過ぎていて、従来、ぼんやりした演奏が多かった。魅力を伝え切れない演奏が多かったということなのだ。
 その問題を解消するには、一つひとつを上手にピックアップして彫啄しみせるか、あるいは音楽を整理して余分なものを耳に入れないようにするか、どちらかだろう。

シューリヒト/パリ音楽院o クーベリック/バイエルンrso シノーポリ/ドレスデンnpo バーンスタイン/ウィーンpo スイトナー/ベルリンsk エッシェンバッハ/北ドイツrso アーノンクール/ヨーロッパco

●シューリヒト。普通の交響曲としスラスラと演奏している。これはシューマンのオーケストレーションのまずさと思われていた複雑さを整理した種類のものだろう。複雑さを特徴とみなさず、欠点とされていた時代があった。大体が分厚く茫洋とした響きで、よく分からない曲というのがシューマンの交響曲のイメージだった。それがこの演奏では、なめらかに音楽が流れ、素直によく分かる音楽になっている。
●クーベリック。ゆっくり熟すのを待っているような入りのテンポ。途中から一気呵成にテンポをあげて、音楽の気紛れさを見せつける。各テーマごとに指揮の態度を変えているのではないか、というように統一感に欠けるところがある。第2楽章では思い入れを断った客観性で、第3楽章では後半のクライマックスでのエスプレッシーヴォに懸けている。終楽章では普通の交響曲のイメージで堂々と。テヌートで引っ張って音楽が走り出すのを止め、溜めに溜めてスケール感を出している。
●シノーポリ。たっぷり歌う第3楽章以外はテンポ速めで、キビキビ、颯爽とし音楽として新風を送り込んだ。第2楽章のコーダの曲芸的な見事さを筆頭に、よく刈り込まれたスタイリッシュな演奏。聞かせたいところ、面白い音型、テーマに集中してその部分的な魅力を拡大してみせれば、どれだけ面白いかというのを証明してくれた演奏。彼は毀誉褒貶あるけれど、この演奏を残しただけでも十分に価値ある指揮者だった。
●バースタイン。たしかニューヨークpoを振った録音が名盤の誉れ高いものだけど、それは未聴。この演奏では最初から流暢に音楽が流れる。あまりに流れが良く、第2楽章のコーダでもスルスルと無理なく通過してしまう。唯一、アダージォが異常に遅く、次のスイトナーの倍近い演奏時間。泣き節がうまく決まらず、少し鈍重に響く。終楽章も吹っ切りきれない。
●スイトナー。すごく速いテンポで終始する。このテンポ設定がシューマン演奏には大きな意味がある。テーマとテーマ、特徴的な音型と音型、ゆっくりのテンポの場合、それらの要素間に時間が空くことで、それらが意味が手を伸し合って結びつくチャンスを狙ってくる。ところが、このスイトナーの演奏ではいっさい結び付けさせないだけの決然としたスピードがあって、異なる意味と意味、気分と気分としてそれぞれが孤立している。しかも演奏は素晴らしく、すべてが聴こえつつ、すべてが個性的に響いて、お互いを隠し合うことをしていない。この演奏ではじめてシューマンのありあまる楽才のすべてが聴けるのではないだろうか。感服の演奏。
●アーノンクール。例によって、あらゆる部分で刺激的であろうとしている演奏。すべてのパーツがギザギザしていて耳障り。アゴーギグも不自然。新鮮な視点で曲を聞き直す方法論としては分からなくもないけれど、そうすることで音楽は下品の淵に落ちてしまうというアンビバレンツ。まあ、この人には最初から音楽性が欠除しているのでしょう。アダージォをまったく歌えないことからも明白。当初、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクムの指揮者としてデビューした頃から、その傾向ははっきりしていたのに、だれがこんな奴を大物にしてしまったのかと、ちょっと呆れている。この人について書いているとその下品さがこちらにまで伝染ってしまうので困る。

 ということで、シューマンの交響曲の魅力を再認識させたのは古い演奏解釈だったけれど、シューマンの真の新しい像を描き出したのはスイトナーのそれのみ。このことが話題になっていないのを訝しく思う。