ハイドン『交響曲第94番・驚愕』の演奏比較

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ハイドン

 ユーモアと共に語られることの多い作曲家だ。“驚愕”“告別”などのエピソードでそのユーモアの精神が理解されているようだ。しかし、本質はそんなことより、彼の音楽の作りそのものにある。テーマを半分に折り畳むセクヴェンツの手法やリズム処理などに耳に心地いい遊びが横溢している。作曲上の機械的な処理のはずなのにハイドンの手になると、楽しさに満ちて聴こえる。そこが天才の天才たるゆえん。緩徐楽章は圧倒的にモーツァルトが美しいが、第4楽章の駆け抜ける爽快さという点で比較するとハイドンに軍配が上がる。その楽しさを求めて、交響曲104曲、弦楽四重奏曲83曲をシラミつぶしに聴いてみたくなるほど。

54.交響曲第94番『驚愕』
 第2楽章でデクレッシェンドしていたテーマが突然フォルテに変じて、緩徐楽章になって退屈して居眠りしている客を起こす、という策略含みの曲。だが今となってはこの程度のことではだれもびっくりしない。騒々しい世の中に馴れすぎて、大きな音に驚くのは気の弱い犬くらい。
 はてさて、指揮者はこのエピソードにどの程度、敬意を表しているのだろうか。

トスカニーニ/NBCso モントゥー/ウィーンpo マリナー/アカデミーco C.ディヴィス/コンセルトヘボウo ヨッフム/ロンドンpo C.クライバー/ウィーンpo

●トスカニーニ。快適なスピードで展開される音楽はめくるめき世界。リズムのアクセントの強さが推進力の源。高音中心のキラキラした音色が、生命力を表しているようだ。ということで、びっくりなどどこ吹く風のサラリと流れる音楽。自然に機械的な面白さが表現されている。最近の古楽派の演奏など及びもつかない境地だ。
●モントゥー。ゆったり長閑にはじまった音楽が一転してキビキビと動きはじめめるときの快感はなんとも言えない。堂々として華やか、優雅艶麗を極めた演奏。これもびっくりには知らん顔。そんなことに煩わされる必要のない充実した音楽であることが分かる演奏。
●マリナー。オケの編成が小さい分、木管が弦に埋没しない面白さがある。それと人数が少ないことによる機敏さが、キリキリ、シャッキリした音楽になって表れる。軽快、爽快、痛快。鋭さはあるけれど小じんまりはしていない。めずらしく、びっくりを取り入れpからいきなりffに移行し、少しはハッとする。まあ、そんなことより、爽快な演奏をしつつ陰鬱な性格のマリナーの個性が出ている不思議さを味わうべきだろう。
●C.ディヴィス。定石通りびっくり。運動性を重視した演奏。シンコペーションを強調していて楽しい気分が横溢している。部分が充実しているので繰り返しのフレーズの再登場が待ち遠しく楽しい。
●ヨッフム。びっりは一番小さいレベル。春風駘蕩のゆったりとした優雅さ。ことさらに構えず気品の高い演奏をしている。寛ぎと長閑さは昼の宮廷の退屈した空気を彷彿とさせる。ほどよい覚醒をもたらす純音楽的、機械的構成の楽しみに、優雅さのベールをかけている。
●C.クライバー。序奏の低音部の不穏さ。第1楽章では重さと軽さの対比。第2楽章では優雅さと武骨さ。第3楽章では主部の律動性とトリオの気品。第4楽章では圧倒的な勢いと一瞬の間。クライバーはすべてに対照軸を持ち込むことで古典の退屈に陥っている曲に真のびっくりを持ち込んだと言えるだろう。それにしも小粋さを生み出す一瞬の“間”の感覚が魅力たっぷり。

 ということで、いまどき真剣にびっくりを仕掛けているのは子供向けコンサートの悪しき慣習なのだろう。子供やクラシックに不馴れな聴衆の知能レベルを低くみる習慣をなんとかする必要がありそうだ。
 先日、コンサートで取り上げられる作曲家のベストテンの発表があった。その内容の貧寒たる様は目を覆いたくなるものだった。その主因はオケが教育目的の出張コンサートを主な収入源としていること、そしてどうしても人気取りの曲を集めてしまう無難な路線を戦後ずっと踏襲しているといことにある。
 人気取りの曲は100人が100人楽しむかもしれない。表面的に興奮しているかもしれない。ただ、そんな薄っぺらな感動は長続きしない。そこから一生音楽を聴きつづけるファンが育たないのは、60年の歴史が明らかにしている。とっくに結果のでた誤った方法論なのだ。
 バッハの深遠な宗教曲でもいいし、ブルックナーの巨大な交響曲でもいい。100人に1人、いや、それが1000人に1人に落ちたとしても、熱心なファンを作り出すことが、クラシックを永続させるための唯一の方策だ。心の奥底に深く楔を打ち込む真の感動を与える必要がある。真の感動といっても、重厚長大ばかりではない。筆者の場合は“胡桃割り人形”や“真夏の夜の夢”だったし、友人は“美しき青きドナウ”や“田園”だった。人それぞれ、いかに真の名曲を見極めるか、どのような演出で与えるか。迎合すべきなのは曲目ではなく、聴くためのシチュエーションにあると思う。聴くためにわざわざ出かけるとか、気持ちを構えさせることの無い、不意の出会いこそ、無垢の感動につながりやすい。そんな状況のクリエイトこそクラシックを救う道だ。心ある人は一考してもらいたい。
 今日は話が変な方向にズレてしまった。まあ、社会派ぶる日もあるということさ。