マーラー『交響曲第5番』の演奏比較

51.交響曲第5番
ヴィスコンティはよくぞ“ベニスに死す”に使ったものだと感心する。第4楽章のアダージェットが死に至る病であることを見抜いたのは、常識のようだけどやはり凄い。
この曲は第5番という番号にちなんで、ベートーヴェンの“運命”のモチーフが引用されている。それが葬送行進曲風に使われ、最後には諧謔的なパレードに呑み込まれてしまう。諧謔的なパレードといえばフェリーニのお得意のパターン。“甘い生活”“魂のジュリエット”とつづけて使った。マーラーはなぜかイタリアの監督とどこかで精神が通じているようだ。
第4楽章のアダージェットの表情があまりに深すぎて、終楽章のパレードのおふざけが浮いてしまう(蛇足に聞こえる)演奏を何度か経験している。ここが難しいところ。
バーンスタイン/ニューヨークpo バーンスタイン/ウィーンpo アバド/シカゴso インバル/フランクフルトrso ベルティーニ/ケルンrso シノポリ/フィルハーモニアo ドホナーニ/クリーヴランドo シャイー/コンセルトヘボウo ブルネロ/カメラータディアルキイタリアーノ(第4楽章のみ)
●バーンスタイン旧。運命の動機とパレードの明るさのディレンマをディレンマのままに表現している。ゆっくりしたテンポでどちらかというと悲痛の表情に引きずられて行く傾向がある。大きく変化をつけようとしてふらふらと視点が定まらない感じ。第4楽章、第5楽章に至ってのめり込みの強さをいよいよ発揮して、どちらにも深く入り込み、アダージェットの絶望をパレードの馬鹿騒ぎの圧倒的な遠心力で一瞬忘れさせることに成功する。
●バーンスタイン新。こちらはやはり老獪な技を発揮している。さらにテンポを落とし、いたるところですすり泣きを聴かせる。そして第4楽章でしっかり歌い上げたのち、第5楽章は静かに入り、軟着陸に成功してから、アダージェットの深い闇の匂いを徐々に消し去ってから、ようやくコーダに至って一気に馬鹿騒ぎの坩堝に追い落とす。
●アバド。静かで安定感がある。コラージュ派なのでディレンマを気にしない。その代わり情感は薄い。アバドの評価が落ちはじめたきっかけとなったのがこのシリーズだったように思う。評論家氏は演奏の意味を考えず、熱気を感じないことだけで赤点としたのだった。
●インバル。こちらは同じコラージュ派だけど、やや狡猾というか、従来の物語派の作った楽章イメージをなぞっているところがある。第1楽章、第2楽章などは低音重視でどっしりと構え、運命の重苦しさを描いている。第4楽章では深く沈潜してみせる。評論家氏が期待する重みは付いているものの、逆にアバドのような切れ味は失せている。
●ベルティーニ。一つのフレーズごとに表情が生彩陸離とした目の覚める思いがする。同時に一つ一つのフレーズの意味が明確で、その連続としての物語にとても説得力がある。音楽の緊張の持続が無理なく生まれている。第4楽章はことさら深刻ぶってはいないのに深い。その態度の浅さが第5楽章のパレードを自然に送りだすことに成功している。しかも馬鹿なパレードのはずの音楽が希望に満ちた音楽に生まれ変わっている。絶望の後の希望。稀有の演奏。
●シノポリ。この指揮者はやはり半分素人の部分を残していたようで、手の内に入っている曲とそうでない曲で出来が雲泥の差。この曲に関しては思い入れほどにはオーケストラを動かせていない。そのため、どのフレーズも重い感情の重いくさりで縛られてしまって、飛び立とうとしない。第4楽章のみ情感が深い。
●ドホナーニ。最初から、もう運命に抗うことをしない諦念に満ちたはかない表情。なにか小さなきっかけで頽落していく弱さ、悲しみに溢れている。第4楽章は深く、第5楽章は強い。その間に齟齬がないのが、この演奏の不思議な点。
●シャイー。優雅で女性的な身のこなしを感じさせる。しなやかな魅力は感じるけれど、それ以上に深く重くなることがない。コラージュ派の演奏としては新味に欠けるか。第2楽章の狂おしさだけが買い。
●ブルネロ。第4楽章だけとなると、ムード音楽的な扱いで十分に成立する。どこかフランク・チャックスフィールドのムード音楽を思わせるところがある。元々このアルバムは映画音楽へのリスペクトとして編まれているので、これはこれで正解ということだ。
コラージュ理論のほうが理屈上は優位のように思えるのだけど、じっさい聴いていると物語派のほうが圧倒的に優勢。音楽のなかの感情の流れは、聴くものの心をしっかり捉え拘束するもの。長年の習慣でそこから逃れられないというより、本能的な反応なのだろうと思う。音楽の表情というものは、人間にある感情を抱かせるための過剰刺激の形態として編み出されたもの、というのが小生の年来の考え。よりよい刺激価の強い過剰刺激を発見するのがすぐれた作曲家であり、その再現にあたってよりよい形を見抜くのが優れた指揮者ということだ。