ブラームス『ヴァイオリン協奏曲』の演奏比較

43.ヴァイオリン協奏曲
これぞロマン派というべき肉感的な魅力を伴った歌に溢れた曲。第2楽章までのしっとり感にたいして終楽章の舞曲的な弾むリズムを一体のものにするところが、やや難所となるのだろうか。
ヌブー/イッセルシュテット/北ドイツrso シゲティ/メンゲス/ロンドンso シェリング/ハイティンク/コンセルトヘボウo オイストラフ/セル/クリーヴランドo ミルシティン/ヨッフム/ウィーンpo ズッカーマン/バレンボイム/パリo ズッカーマン/メータ/ロスpo シトコヴェツキー/マリナー/アカデミーco クレーメル/バーンスタイン/ウィーンpo
●ヌブー。名盤の誉れが高い。なるほど異常なと言ってもいいほどの集中力。強いボウイングで、女性とは思えない力強い音色。粘り強く、途切れることなく歌いつづけられる熱気に圧倒される。けして美しい音ではない。しかし、そのことがかえって、虚飾を捨てた真摯な熱狂として受け止められる結果になる。
●シゲティ。これまたお粗末なほどの音色。最晩年の録音で、音程すらふらつき気味、細くガサガサした音。それなのに、出ない声を使った渾身の歌として伝わってくる。メンゲスの伴奏はかなり上手く安定感がある。その安心感があるせいなか、萎えて行く生命力による懸命の歌は美しく聞こえる。細い音のダイエット効果なのか、ボッテリとした暑苦しさを感じずにすむ演奏だ。
●シェリング。磨き抜かれた美音。鋭角的な輪郭のはっきりした描線。静かに、しかし、感情豊かに嫋嫋と切なく演奏する。高音の艶と、細くシャープな輝きが、清潔感を感じさせるので、豊かな表情付けを行っても下品にならない。
●オイストラフ。豊麗な音色というイメージがあるけれど、曲ごとに音色を使い分けているようだ。ここでは弦のテンションを上げ、強いボウイングでギリギリときしむような強い音で演奏している。第1楽章の第2テーマ、第2楽章のテーマなど本来の豊麗な音と感じさせているが、それでもまだきつい音色。それだけに、全体として稀にみる力強い、圧倒的な演奏。セルの伴奏も立派。
●ミルシティン。これまた細い音色の美音の持ち主。澄んでツンと張り詰めた気品があり、けして過剰な熱を帯びない。すべてがp、mpで語られるといっても過言ではないほど。フレージングの自然さ、歌の美しさ、微妙な音色の変化による表情の多彩さ。それらが静かな音の世界を豊穣の世界にしてみせている。
●ズッカーマン・旧。バレンボイムの伴奏は力が入っていて、いかめしくガッシリしている。角々をしっかりエッジを立てて大曲を弾いているという意気込みを伝えようとしている感じ。その力の入り過ぎた伴奏に乗って本人も少し力が入っている。歌の上手さにかけては当時から抜きん出ている。
●ズッカーマン・新。こちらは旧盤を反省したのか、ゆったりとした大らかな演奏。なめらかで柔和な甘い歌。一瞬声をひそめる歌の上手さに磨きがかかっている。彼が早くから音楽性の異なるスターン一派から離れていれば、もっと独自の世界を強調できるのだろうけれど。シンジケートからの脱出は難しいのだろう。
●シトコヴェツキ。一度聴いた時は、何もしていない平凡な演奏に感じてしまう。その割にはけっこう良かったな、という印象。繰り返し聴いていると、盛り上げることはほとんど放棄して、どちらかと言えば、低回する鬱鬱とした気分のぬるま湯状態に浸っていたいというブラームスの本質の表現に意を用いていることが分かってくる。何もしていないのではなく、何も起こらないようにしていたのだった。
●クレーメル。シゲティの若いときはこんなだったのではと思わせる細い響きに、強い表現意欲を充満させている。細く長い緊張感の持続や、急激なトレモロの強調、あるいはオリジナルのカデンツァなどどんどん新たな刺激を作り出そうと懸命。そのなかで第2楽章のソットヴォーチェ風の表現は美しく惹き付けるものがある。バーンスタインのサポートもいつもながら陰陽の対比の大きいもので、スケール感は十分。
今回も弦の音色によって、同じフレーズであってもその意味するところが違ってしまうことがはっきりした。ヌブー、シゲティ、クレーメルは音が貧しいかキツイ傾向がある。シェリングとミルシティンは洗練された美しさを持っている。オイストラフ、ズッカーマンとシトコヴェツキは音が豊か。
音色によって音楽の性格が簡単に変わってしまうということは、作曲家のオリジナルイメージは楽譜をいくら検討したところで分かるはずがないということを示している。シトコヴェツキのぬるま湯の解釈がブラームスの本質だとしても、それをヌブーの荒々しい音色で再現すれば、ぬるま湯に浸っている自分に苛立っているといった解釈として正当化できるだろう。逆の入れ替えも同時に可能だろうから、どこにも本当のブラームスなどはいないということだ。演奏家はもって銘すべし。自分の解釈が何を目指しているかを明確にすべきであって、作曲家らしさの追求などは肥やしにもならないということを覚えておく必要がある。