ブラームス『交響曲第1番』の演奏比較

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ブラームス

 「渋い」という印象で簡単にまとめられ、年寄り趣味の音楽のように語られてしまうことの多い作曲家。しかし、じっさいに聴いてみれば、人並みの欲望と興奮、何かを失った悲しみ、諦め切れない切なさに満ちあふれた人間臭いどろどろとした音楽であることがすぐに分かるだろう。これをして渋いなどという神経がどこから生まれるのかちょっと信じられない。高校性のころに読んだ解説書で交響曲第4番を晦渋と評してあったので、聴くのを後回しにして、後悔した覚えがある。ついでに言えば、シューマンは韜晦なのだそうだ。なにをかいわんやだ、まったく。
 こういう変な解釈が生まれるのは、ベートーヴェンが苦悩を経て勝利へという単純明解な図式をもたらしたのにたいして、ブラームスやシューマンの音楽には単純な図式に当てはめられない、すっきりしない音楽だからだろう。ただ、その人たちはすっきりしない状態そのものが明白に受け止められるという事実を忘れているのだろう。

40.交響曲第1番
 きっぱりできないブラームスが何十年もかけてようやくベートーヴェン的すっきり路線でまとめあげた曲。フィナーレのコラールから大行進曲の雄大さ、解決の爽快感は、お手本を上回るかもしれない。しかし、彼の感じていた苦悩そのものは小市民的に小さく、その暗さそのものに運命的な逃れられなさや、社会を代表するような深さ重さは感じられない。英雄的苦悩を庶民的精神で再現して、その重みに辟易しつつ、表面上はなんとか役割を成し遂げようと努力している。それがブラームスの身近な面白さだ。

トスカニーニ/NBCso ミュンシュ/パリo ムラヴィンスキー/レニングラードso クーベリック/バイエルンrso バーンスタイン/ウィーンpo ジュリーニ/ロスpo スイトナー/ベルリンsk

●トスカニーニ。速いのは出だしのみで、意外に速くない。中低音の響きが充実していて、張りのあるメロディーラインで音楽の推進力を得ている。緩徐楽章のたゆたいの意味は理解されてないだろう。終楽章の盛り上がりは圧倒的で景気がいい。存分に鳴って、オーケストラの楽しみは満喫できるけれど、この割り切れた演奏はベートーヴェンにこそふさわしいだろう。
●ミュンシュ。ティンパニーが荒々しく開始を告げ、低音が怪しく蠢く。最初から問題含みの音楽であることを分からせるような虚仮威しがある。ピアノ協奏曲第1番やバラードop10のような若い時代のブラームスの名残りが感じられる。第2楽章では粘り強くメロディーをつなぐことで惑いの気持ちが描かれ、終楽章ではコラールに宗教的な解放や行進曲の勝利のイメージに重みが感じられる。短いアッチェレランドの繰り返しが興奮につぐ興奮をうまく引き出している。
●ムラヴィンスキー。毅然、剛直などの標識が貼られている指揮者だけど、曲によってはそうとも限らない。この演奏では意外なことに正反対とも言える、ゆったとかおっとりなどのキーワードが当てはまる。第1楽章では強弱定まらないところがあり、うっかりとすら言えそうだ。第2楽章のしっとりした感じなど、この指揮者にとってのブラームスは第2番などのゆったりした抒情に代表される気質を評価しているのではないかと思われる。
●クーベリック。低音がドローンのように重く響きつづけ、どっしりとした印象を作っている。第2楽章の息の長い馥郁とした抒情を歌いきっている。第3楽章の祝賀の気分、終楽章の悠然として堂々とした雰囲気はなにかに勝利したというより、最初からそうあるべくして堂々としているという存在感、風格が感じられる。
●バーンスタイン。引き締まった響き、感情の振幅が大きく、最初から揺さぶりをかけられる。第2楽章では弱音の緊張感が高く、気を緩めさせない。第3楽章ではのんびりと見せ掛けて急変し、さらに緊張を高める。終楽章では、逆に緊張を解くように、コラールをゆったり歌い、行進曲でも隅々まで歌い尽くそうとするように音が充溢している。ティンパニーのズンと響く音が、人をして力強く前へ進ませる力に満ちている。
●ジュリーニ。76年の秋にウィーンsoと来日した時、この曲の冒頭、ティンパニーとともに主題の提示をする部分、いきなりリタルダンドして止まってしまうのか、とハラハラした記憶がある。彼の演奏はおおむねゆったりで、しかも、ごく小さなパートに拘泥して、その部分を拡大して見せるような演出がある。
 この演奏では最初のティンパニーがずしりと重く響くように、一音一音の重みを測るようにゆったり、じんわりとしたテンポで隅々まで歌い尽くし、言い足りない部分を残さないというような慎重な運び。全体にたたみかける迫力よりは、充足感を重視した演奏。終楽章でもコラールのホルンの豊かさ、フルートの伸びやかさなどいかに満ち足りた音を出すかに意識が集中しているようだ。
●スイトナー。ベートーヴェンのときのような原理的なアプローチではなく、小手先ではあるけれど、ちょっと変わった景色を作り出そうとしている。第1楽章では出だしからの急速な盛り上げを図っておいて、最後にテンポを緩め、ゆったり歌わせることで、山の尾根道に出て広々した景色を前にするような清々しさが感じられる。第3楽章ではやたら蠢いてみせて、どこかが不意に膨れ上がっていきそうな気配をもたせている。終楽章では出だしのフルートの音色の明るさが結末の明るさを予告している。

 ブラームスは新古典派とも呼ばれるけれど、音楽の持っている表情の強さというのは明らかにロマン派のもであって、アプローチの原理的な方法論によってよりも、音楽の持つ価値観にたいする考え方の違いがより以上に音楽のあり方を規定している。
 ここで取り上げた演奏でも勇壮に英雄を気取りたいものもあれば、小心翼々の心の動揺を大げさに言いたいもの、達観したふりのものなど、その立場を読み込むことで、どの演奏もそれなりに楽しみようがある。一定レベル以上の演奏技術によって完成した演奏であれば、完璧であるかどうかなどを追求することは無意味であって、どのような部分を強調しようとしてるかのほうが重要。どうも当たり前の結論になってしまった。