ドビュッシー/『海』の演奏比較

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ドビュッシー

 印象派。良くも悪くもこの一言でドビュッシーは語られてしまっているのではないだろうか。全半音による6音音階という楽理分析で語るにせよ、捕らえどころのないメロディー、ぼんやりとした響きであるにせよ印象派という言葉は便利で、その響きの印象、心地よさにもたれかかってしまっている。
 印象派という言葉はハーモニーとともに語られる。だけど、ドビュッシーには長い曲線を描く魅力的なメロディーがある。軽快なリズムが目立つ曲もある。先入観に捉えられて、一面的な見方をしているともったいないことになるかもしれない。

32.交響詩『海』

 サティが第1曲“海の夜明けから正午まで”の11時55分のところが良かった、と言ったように、ある程度写実の要素のある曲。北斎の“神奈川沖浪裏”に着想を得たとも言われている。ロシア5人組に影響を受けているので、リムスキー=コルサコフの“シエラザード”にも影響されているかもしれない。海を感じ取ることがいいことなのか、それとももっと純音楽的に聴くべきなのか、そこが一番評価の分かれるところだろう。
トスカニーニ/NBCso ミュンシュ/ボストンso プラッソン/トゥールーズ市立o デュトワ/モントリオールso チェリビダッケ/ミュンヘンpo

●トスカニーニ。この人に繊細微妙なニュアンスを求めても無駄だろう。オン・オフのはっきりした音楽で、ピアニッシモであっても、感情としてあるものは明確に音にされる。フォルティッシモのクライマックスに向かってまっしぐらにクレッシェンドする、単純だけどドラマティックな演奏。
●ミュンシュ。フランス音楽の大名人指揮者と位置付けられているだろう。でも、ニュアンス派ではない。リズムが生き生きとして、メロディーを巧みに浮き上がらせる。ドイツ音楽に立ち向かうときと同じ方法論のようだ。クライマックスに向かってアッチェレランドをかけるあたりは、迫力満点。海の底から波が突き上げきて、逆巻き、崩れ落ちる感じで、身体ごと揺さぶられるようだ。
●プラッソン。いかにも印象派の音。霞んだ光が感じられるような茫洋とした音色。アンサンブルのアインザッツが微妙にずれるために、音に滲みが出ていると言えばお分かりいただけるだろうか。フランス人特有のわがままな体質から生まれるナショナルトーン。これを聴くとホッとするところがある。ミュンシュとは逆に小さな盛り上がりもすべて激しく強く演奏するので、海の表面だけが強風にあおられているようだ。激しさは台風並ではあるけれど。
●デュトワ。アンサンブルの精妙さは特筆に値する。その武器を最大限に使って、音色の微妙な変化を徹底して追求している。その結果生じるのは、小さな波でも、一つひとつの面の光の差を綿密に描き出してくる美しさ。音楽の盛り上げは最後だけという割り切りで、音楽の細部に蓄えられた美しさのすべてを見せてくれている。
●チェリビダッケ。1音1音の生成生滅、肌理のすべてが見える。リアルな音としての官能が全開になっている。リズム感、メロディー処理が巧みで、異常に遅いテンポなのにちっとも飽きさせない。終盤に向かってようやくテンポを上げ、興奮の坩堝に放り込んでくれる。

 こんなに続けて『海』ばかり聴いて、船酔いするかと思ったけれど、案外そうでもなかった。ミュンシュのように底から突き上げてくる演奏に出会えば軽いめまいがするけれど。そういえば、アバドがルツェルン祝祭oを振った演奏をテレビでチラッと聴いたのが、凄そうだった。