チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲の演奏比較

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16.ヴァイオリン協奏曲

ロシアの憂愁を代表する名作。やや媚びを売るような下品さに傾く嫌いがあり、どこまでそのたっぷりとした抒情を歌い上げるべきなのか、難しいところ。それはチャイコフスキーという作曲家のポジションそのものの問題でもある。西洋の様式のなかにロシアの方言を持ち込んだいびつさが難しさの元。毒消しをすれば上滑りするし、くどくすれば品下がる。さらに技巧性との調和という課題もある。アウアーが演奏不能と断わった曰く付き。ピアノ協奏曲でも断わられたことからすると、演奏の専門知識の欠除を表向きの理由として、じつは彼ら演奏家の目が西洋を向いていて、あまりにロシアの土俗的な香りがすることに抵抗があったのではないかと思う。2線級のソリストがちゃんと初演したことを考えれば、ほかに理由はないだろう。

オイストラフ/オーマンディ/フイラデルフィアo ズッカーマン/ドラティ/ロンドンso チョン・キョンファ/デュトワ/モントリオールso ミルシティン/アバド/ウィーンpo 竹澤恭子/フェドセーエフ/モスクワrso 五嶋みどり/アバド ヴェンケーロフ/アバド/ベルリンpo

●オイストラフ。豊かな響き、艶やかで滴り落ちるようなみずみずしさすら感じさせる。弦楽器、とくにヴァイオリンではその音色だけで人を魅了する力がある。オイストラフはその最高級の音色を中心に音楽を組み立てている。たっぷり音を聴かせるために、テンポはつねにややゆっくり。技巧も難所をなんなく通り抜け、あえてひけらかすことをしない。情緒についても、一つひとつの感情にのめりこむことはない。それは音色のヴァリエーションを引き出すための仕掛けにすぎない。堂々たる音楽だけど、それがチャイコフスキーのものである必要があるのかどうか。ヴァイオリンそのもので満ち足りているところがある。
●ズッカーマン。彼がまだ二十歳過ぎの頃の演奏。最近の落ち着いた演奏と比べて、ずいぶん溌溂としている。よく歌うことでは、今のほうがはるかに芸が上のように思うけれど、当時から一頭地、群を抜いていた。高音の伸び、躍動感、なんともイキイキしている。憂鬱な感情の渦から、抜け出し翔だしていく喜びが目立つ。それは上向のメロディーで高揚していく音楽の勢いがそうさせるもののようだ。
●チョン・キョンファ。女性奏者には巫女型の演奏がちょくちょくみられる。もののけが乗り移ったかのような圧倒的な集中力で、迫力満点。息も吐かせぬ激しさがある。ヌブー、デ・ヴィトー、ウィルコミルスカ、近くではサレルノ=ソネンバーグ。なかでもチョン・キョンファの集中力は鋭く、持続力が強い。どこからどこまで気が張り詰めていて、それは音の張り詰めにも通じていて、圧倒されてしまう。もうどこがどうという域を超えている。あらゆるフレーズが粘りに粘って、聴くものをがんじがらめに縛り上げる。息苦しさや、暑苦しさを感じたとしても不思議ではない。
●ミルシティン。この大巨匠は一聴してひれ伏すような大袈裟な演奏はしない。音色からして細い。ひ弱とすら言える。それなのに華やかなイメージを抱かせるところに上手さが隠されているのだろう。演奏はいつも毅然としてピンと張り詰めた空気が生まれてくる。深い表情を見せても、それに拘泥しないサラリとしたエレガンスがある。ミルシティンは他と比べて一人音程が違う。聴き慣れた平均率ではなく、純正調のポジションを取っているのではないかと思われる。倍音がきれいに響くはずだから、音色の美しさはそこから発していることなのかもしれない。 一番言っておくべきことは、情緒の世界にどっぷりと浸からず、気品を保つことで、圧倒的ではないはずの技巧の部分で圧倒的な輝かしさに到達しているということだ。
●竹澤恭子。オイストラフよりもまだゆったりとした演奏。たっぷり甘く音色と音楽の柔らかさを聴かせる。丁寧に歌おうとしいる。ただ、すべてを歌にしようという意図が行き過ぎて音楽の勢いがなくなるところがある。それと、無理に歌うところで少し演歌的に聞こえるところも。速いパッセージ、コーダなど名人芸のところでは素晴らしい切れ味を発揮している。
●五嶋みどり。艶やかな音色。静かで落ち着いた演奏。深い沈潜があるからこその熱狂がある。しかも、その二つを結ぶ論理が念入りに、緻密に組み立てられている。それを肯定する人もいれば、煩すぎると拒否する向きもあるだろう。 賛否の分かれるところだ。立派すぎるほどに立派な演奏、非の打ちどころがないというべきもの。煩い、というのは「あるものねだり」、ちょっとねじれた願望だ。
●ヴェンゲーロフ。澄んで伸びやかな音。チャイコフスキーの泥臭い部分に清廉の風を吹き込む勢いがある。アバド(この項3回目の登場!)のがっしりとた構成力の下では、細工の細かさが目立つようになる。その繊細さが行き悩み、作曲家の悩みとたまたま符合しているように感じられる。ミルシテインと比較するのも可哀想だが、圧倒的な技巧だけで勝負すればよかったものを、細かな情緒にこだわり、精神性を思うばかりに、この曲の悩みの底なし沼にはまったようだ。

やはり、実演でも精神的なバランスの取り方で最終的な仕上がりの差が出ているようだ。楽曲分析というより、演奏家自身の精神、趣味が裸にされる曲ということか。