ピアノソナタ第8番『悲愴』の演奏比較

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4.ピアノソナタ第8番『悲愴』

 ベートーヴェンにとってピアノは自適の実験装置のようなもだった。ピアノソナタで実験したものが後に交響曲で活かされる。『運命』のハ短調という調性は若いときからのお気に入りで、作品1のピアノ三重奏曲の第3番で取り上げた後に、作品10のピアノソナタ第5番、そしてこの作品13の『悲愴』とつづき、ひと休みした。それは本人にとってもやり尽くした満足感を味わえたからだろう。初期の最大の傑作だ。あとは『月光』、『ピアノ協奏曲第3番』、『合唱幻想曲』最後、晩年になって最後の第32番のピアノソナタ。このような流れを持つのはニ短調の『テンペスト』『合唱』くらいか。
 ハ短調の最初の傑作は是が非でも取り上げなければならない課題曲なのだ。

ケンプ ホロヴィッツ グールド グルダ コヴァセウィッチ3種類 ルプー ラーンキ ゲルバー ギレリス ハイドシェク

●大ベテランとして功なり名を遂げた時代のケンプの演奏。ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなど圧倒的なリリースの量だった。その名人ケンプの演奏の一番の特色はつねにテンポやリズム、フレージングに揺れがあり、行き惑っている、ということだ。それは、もともとオルガンの即興演奏家だったとい履歴に由来する、音楽はライブ感がなければならないという観念だったのか。自分の作り出した音楽に自ら聴き入って感動のあまり、音楽のタガは緩みっぱなし。それでも感動が正直なものだから聴く側からも共感できるというところがケンプの凄いところ。テクニックが悪いと言われることもあったが、速いパッセージを軽々とこなしているところもあり、やはり情動が安定しないためのテクニックの狂いなのだと思われる。譜読みに関しては、所々目だった解釈を打ち出すところがあって、第1楽章の冒頭グラーヴェのところで、第1主題のリズムパターン、タ・ターン(後打ち)となるところを先取りして強調するなど、面白味のあることをやっている。知情意技のバランスで言えば知情の勝ったものかもしれない。
●ホロヴィッツの演奏は大変満足すべきものだ。ただ、大きな期待を寄せると肩すかしを食らうだろう。ショパン、シューマン、スクリャービン、ラフマニノフなどの人を圧倒する大名演と比較するとあまりに常識的なのだ。ただ、人口に膾炙するイメージそのままに過不足なく演奏できるということ、考えようでは凄いことだ。崇高な精神を求めるような演奏家ではなし、夢見るような第2楽章、嵐のような第3楽章などという陳腐な解釈の陳腐さを忘れさせる名技を披露できるといのは近頃の若い演奏家には及びもつかない大名人芸。懐が深いと言わざるをえない。
●グールドはそのホロウィッツが憧れのスターだったと、どこかで吐露していたと思う。この巨人を乗り越えて何かを言うためには普通ではいられなかった。まず音の設計。古典派の音楽は低音の根音を基底として音が積み重ねられなければならない。その前提をスタートから覆すように、高音部は低音の上に乗らない。主題はスタッカートで切ってしまう。音楽の意味は緩急の差にこそある、と言わんばかりに緩急の差で徹底して意味付けをしていく。その際に取られる速度設定が制限速度無視の超高速。速回しのようにすることであらゆる感情的な意味を解体すると同時に、積もりにつもった澱を洗い流し、音楽のエネルギーのレベルに置き換えてしまう。後のモーツァルトのピアノソナタ全集でも繰り返された手法だ。圧倒的な速さの前ではまだ少し速い目のテンポの第2楽章の歌ですらすごく深いものに感じられる。耳を新鮮にする効果というのはかくまで凄い。
●グルダの若き日の全集から。ウィーン三羽烏と囃し立てられ、その先頭に立ち古典の解釈の正当性で評価が高かった。主題はちゃんと低音の上に乗り重厚に響く。第2楽章の歌でも、中音域の響きにゆとりがあり、包容力すら感じられて深々とした音楽の魅力を高めている。テンポの微妙な揺れで安心感を作り出している。第3楽章になってもテンポはゆっくりとしていて激しくならない。昔を懐かしむような余裕のある音楽だ。ただ、低音を重視するあまり重石をひきずっているように感じられる部分もなきにしもあらず、というところか。
●コヴァセヴィッチというピアニストは気に入った曲を何度でも録音する癖がある。第30番のソナタ、第4番の協奏曲、が3回、2回録音しているのはかなりの数に上る。さほど多くない録音履歴からすると異例のことだ。それでもレコード会社が録音をOKするといことはそれだけの魅力があるからに他ならない。第1回は初期、20代のときのEMI録音。デビュー盤だ。一番の特色はソフトフォーカスのかかったような音色。なんとも優しく情感を深く表現できる条件が整っている。低音の柔らかな弾力に満ちた音も独特のもので、その力が音楽の前進力の源になっている。力強い音楽は激しく熱していく。第2楽章はゆっくりと一音一音確認するように手探りで進む。フレーズごとの深い呼吸が印象的。高い声部を強調したときのハッとするような明るさはちょっと例がない。
●2回目の録音は30代、フィリップス、協奏曲第3番にフィルアップされた。これが本命以上に出来が良かった。根本的な姿勢はほとんど変わらない。ただキャリアを積んで巧みになっている。歌いはじめ、おさめの部分がより丁寧になり、音楽のライブの流れがより上手く強調されるようになった。アナリーゼで単純に構造分析したレポートではなく、演奏家として自分が弾きはじめた音楽を自分で聴きながら育てていく姿勢が明確になっている。没入、忘我と紙一重のところでかろうじて冷静さをとどめた演奏といえるだろう。第1回の録音に比べて抒情性が高い。低音の重視もやめ、音像がクリアになったことも影響しているのだろう。第2楽章では歌の息の長さが目立つようになっている。第3楽章ではよりメリハリが強調されている。
●3回目。50代になってEMIに復帰し、全集を録音開始した。この間、アルゲリッチとの破局を含め、鳴かず飛ばずの時期があり、相当悩んだのでないかと思う。10年ほどリリースの途絶えた時期がある。元々ラフマニノフやホロヴィッツが憧れのスターだったというから、押し掛け弟子になったマイラ・ヘスとは大分タイプが違う。EMIに復活後はヘス流の情緒の流れを重視するきわめてデリケートなスタイルとヴィルトゥオーゾスタイルとの調和を目指しているように感じられる。テンポはかえって速くなり、低音を豪快に鳴らすし、グリッサンドなども派手になった。それが曲芸的、名人芸のひけらかしに聞こえず、音楽の流れのなかで収まるべきところに収まっている。グラーヴェという荘重な表情でスタートする音楽だが、主題の勢いなどを経て、グラーヴェの再現では沈潜からの脱却が実現している。それはヴィルトゥオーゾスタイルによる欲求の解消が寄与している。第2楽章の歌の明るさは希望に聞こえるし、第3楽章でテンポをゆるめてゆっくり進むのはすでに問題が解消して圧倒的な勝利の行進のように聞こえる。
●ルプー。70年代に抒情派の詩的なピアニストとしてもてはやされた。あまりに遅い演奏は一般的ではなく、どの曲にも当てはめられると、聴く側も少しげんなりしてしまうせいか、最近では動向が聞かれなくなくなってしまった。でも、1音1音消え入る音に聴き入るような音楽は一聴に値する。これはただ酔狂なポエムマニアの仕業ではない。ルプーはかなり体格の大きな人で、ピアノなど捻り潰してやるわ、というほどの見掛けをしている。呼吸も長い、ダイナミクスも広大な巨人ピアニストである。『悲愴』にそのような表現が必要かと問う前に、そのような表現が可能であることに驚いてもらいたい。圧倒的に深いグラーヴェの表現が成立している。第2楽章はあまりに遅く弾くと希望は感じられずほとんど後悔に満ちた雰囲気になる。第3楽章もあまりに遅いために一気に駆け抜ける爽快さは捨てられ、なよなよとして問題が解消しないまま。すべては劈頭のグラーヴェそのものにある、という内容。
●同じく70年代にファンクラブまでできたデジェ・ラーンキの演奏。ハンガリーの若手三羽烏と騒がれ、シフ、コチシュよりもてはやされていた。すぐに消えてしまったのは、優等生だったけれどオリジナリティがなかったということなのか。ならば、ここに残された録音はハンガリーの音楽教育の一時期の傑作として記憶されるべきだろう。音は軽く重厚なところはないけれど、どこをとっても快適に流れ、心地よい青春の音楽だ。第2楽章はやや速めでそそくさと過ぎ去ろうとする響きが寂しく悲しい。かといって悲劇というほど重くはならない。ヒーローを気取る者にありがちな、ぬるま湯的な哀しみに浸っていたいという一面の真理を言い当てているような演奏。久しぶりに聴いて面白かった。意外なほどに達者な演奏なのだ。演奏家の命運ほど分からないもはない。
●ゲルバーはDENONへ移籍するまえのEMIへの録音。この人の演奏はどこか前時代の舞台人のもののような気取り、優美さが感じられる。化粧をして舞台に立つからとか、セクシュアルな趣味での優美さ、あるいは女性的という意味ではない。すべてを言い切らず、後は分かるでしょうというスタイル。華麗な見栄、フレイレなら豪快な見栄になるところが、彼の場合には優しいものになる。第1楽章のグラーヴェからテーマへの移行のなめらかさ、ピークでの速さと圧倒的な迫力のなかでの優美さの維持。第2楽章、深い呼吸から起こる興奮の耐え方、第3楽章で低音が力強い推進力を示しているときに、中高音では気品あふれる表情付けを行っている。貴族社会の優雅さ、気稟というもののあり方を身をもって示してくれている。ノーブルとは彼のことだ。
●ギレリスは東西冷戦状態の時期にソ連の目玉商品としてリヒテルやオイストラフなどとともに西側にその実力を見せつけるツアーを敢行したのだった。いわく“鋼鉄のピアニズム”。しかし、年を経て来日した公演に接してみても、そのようなメカニックな冷たい印象がどこからもたらされたものなのか首を捻らざるをえなかった。彼のピアニズムは朴訥とした几帳面で深く押し込まれるタッチから生まれるものだ。1音ごとに確実に丁寧に、しかも歯切れよく音化されていく。そこに派手さはないけれど絶対的な意思の強さの感じられる音楽が生まれている。第2楽章、第3楽章とゆっくりと音楽の意図を確認するように弾きながら、最後に決然とテンポをあげるため、それが最終結論であると、手に取るように分かる。誠実に音楽と向き合った結論として素直に受け入れられるだろう。
●ハイドシェクが宇和島で残した録音では、ライブ録音ということもあるのか、テンポの上げ下げが頻繁に行われる。即興性を重んじているということも言えるだろう。一瞬のルフトパウゼを取ったり、速すぎた後にテヌートで伸ばしたり、うるさいほどに動かしている。この人はケンプの弟子で、同じアプローチに近い。グラーヴェからタ・ターンというリズムパターンを強調することも同様。第2楽章では低音へ流れていくメロディーを強調することで深い沈潜へと引っ張っていく。第3楽章は非常に激しいけれど、タッチが羽のように軽く、すべてが風のように吹き抜けていく。

 こうして演奏比較をしてみると、ピアノソナタは交響曲と同様に文学的な解釈の有無によって音楽の作りが大きく変化している。グールドのように夾雑物を排除するための強制的な手段を発明するものから、ルプーのように文学性に屋上屋を架けるようにさらに新たな詩を生み出そうと苦吟するものまで。『悲愴』という課題の大きさが、演奏のスタイルの多様性を可能にしていることが分かる。