ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番の演奏比較

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3.ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第1番』

 『田園』も『合唱』もなしかよ、との落胆の声が聴こえてきそうだ。で、ピアノ協奏曲も『皇帝』をはずして『第1番』。A面曲に挑みながらまたしても天の邪鬼。まあ、こちらのコレクションの都合などもありつつ、協奏曲のなかで一番好きなものを選んでしまった。

アニア・ドルフマン/トスニカーニ/NBCso グルダ/ベーム/ウィーンpo リヒテル/ミュンシュ/ボストンso コヴァセヴィッチ/C.デイヴィス/BBCso コヴゥセヴィッチ弾き振り/オーストラリアco ミケランジェリ/ジュリーニ/ウィーンso アルゲリッチ/シノーポリ/フィルハーモニアo ラローチャ/シャイー/ベルリン放送so

 ベートーヴェンの協奏曲はオーケストレーションがしっかりしていて、伴奏がしっかりしてないとどうしても聴き劣りがする。今回の顔ぶれは文句なし。指揮者もオーケストラも名手、名門揃い。どのアルバムも充実した演奏でピアノを支え、シンフォニックな楽しみを満喫させてくれる。本来は指揮者の技や音楽性についても語るべきなのだろうけれど、録音にあたってソリストか指揮者かどちらにイニシャチブがあったのか確認のしようもないし、あやふやな話を独断でやる意味がないと思い、すべてソリストの最終判断(あえて反対しなかったという消極的な形であれ)した責任の主体として、ピアニストたちについて語ることにする(どうせ独断ばかりなのに、今度ばかりは変に恰好をつけるね、との野次が。そう、本当のところを言えば、細かく分析するのが面倒だったのだ!?)。

●ということで、まずアニア・ドルフマン。この女性ピアニストはほとんどこの1枚で知られるのみのピアニスト。録音には恵まれていないけれど、アメリカでは大立者だったらしく、ジュリアードなどで教えていた高名なピアニストだったしい。ロシアからの亡命組で、パリ滞在の若い時にイシドア・コーエンに学んだらしいだけど、フランス流というよりはロシア流のバリバリ弾くタイプ。トスカニーニを向こうに回して一歩も引けをとらない。トスカニーニ流の豊かなカンタービレでクレッシェンドしていく強靱だけどしなやかな旋律の上を直線的にグイグイと押しまくっている。一気に駆け抜ける痛快さが特徴だろう。協奏曲の楽しみの一番芯の部分である名人の曲芸を楽しむという意味では素晴らしい成果をあげている。
●グルダのものは、ベートーヴェン弾きの若手として登場したころのもの。ずいぶんゆったりとしてテンポで一つひとつのフレーズを丹念に弾いている。晩年の気ままな演奏とはずいぶん趣が違う。一つひとつの音をよく聴いて音の間から詩情を汲み取ろうとでもいうのか、優しくはあるけれど、どこか夢見がちなひ弱き青年のイメージがある。気分に流されてしまわないのは、オーケストラのしっかりしたサポートと、曲自体の構成の力強さによるものなのだろう。この曲は協奏曲においてベートーヴェンらしさに到達した最初の曲(じつは第2番のほうを先に作っていた)。あまりによく出来ていることと、交響曲のように文学性の入り込む隙がないのか、『運命』のときのように、演奏スタイル、解釈が180度違うということが起こらない。
 といいつつ、グルダの演奏では、装飾的な音型まで丹念に弾くことできらびやかな音楽になり、モーツァルト時代のギャラントなスタイルに近寄っているように感じられる。テンポが緩いわりに、強弱の振幅を拡大していないことで、ベートーヴェン的なトゲの部分や迫力が弱められ、別の魅力が出てきているということだろう。
● リヒテルは東西冷戦のピークの時に、ギレリスやロストロポーヴィチらとともにソ連の宣伝部隊として欧米で大活躍した。この録音もその当時のもので、圧倒的な迫力がもてはやされていた、その面影を偲ぶことができる内容だ。ミュンシュの指揮もいつもながらの推進力で、立ち止まることなくぐいぐいと迫っていく。リヒテルはその音楽に乗って、力強く剛毅なタッチでピアノを震わせるようにして音楽を叩き出している。自分が作り出した音楽に興奮するところがあり、どこか当てのない世界へ走り去ってしまうような危険な匂いがする。それが彼の音楽を熱くしてる原因で、精神的な深さにもつながっている。その精神性がベートーヴェンらしいかどうかを問う必要はさらさらないだろう。
 ●コヴァセヴィッチがまだ青年だった頃の演奏。この人は音色だけでも稀有の魅力を持っている。繊細華麗なソフトなタッチと、豪放磊落な強靱で重量感のあるタッチが同居している。持てるものがつねに強者、勝者かいうとさにあらず。単純な篩い分けができないせいで混乱した評論家たちは無視することに決めたのだ。特徴をうまく表現でないために、この国では埋もれてしまった演奏家が山ほどいる。そのなかでもコヴァヴィッチはもっとも惜しい人材。1点1点探し出して聴くべき値打ちがある。 70年代前半、まだ繊細さが目立っていた。微妙なニュアンスや小さな表情づけで音楽の起伏を作り出していくのを聴いていると、感情に論理があるという気がしてくる。あの表情、感情の盛り上がりがあったからそ、この沈潜がある、という一貫した流れ、断ち切ることのできない強いしなやかな線がはり巡らされている。それでいて息苦しくならないのは、生き生きとしたリズム感。単純に音の粒立ちだけを比較すれば、もっと切れのいいピアニストはざらにいる。でも躍動するリズム感と切れを合わせ持つとなると彼以上の成果を上げているのは稀だ。
 ということで、コヴァセヴィッチの演奏は、音色の美しさ、リズムの快適さに一気に聴きおえるのだけど、そのすべての時間、感情の起伏のすべての論理を完全になぞってしまうので、圧倒的な充足感と疲労感を覚えることになるだろう。もちろん、心地よい疲労を喜ばなければならない。
●コヴァセヴィッチの新盤では、初期の曲であるにもかわらず、巨大に拡大され、そこに盛り込まれた音符の楽しさのすべて、音楽の元気の良さを精一杯に吐き出そうとしているかのように37分間がはち切れんばかり勢いで詰まっている。リズムの弾み、歌の伸びやかさがたっぷり。やりたいことでいっぱいなので、まったく遅く感じることがない。オーケストラもコヴァセヴィッチにしたがって元気いっぱい、一体感が爽快に響いている。
●ミケランジェリはもう完全に特殊なアートの世界。この名人はなんと言っても透徹した音色が魅力。モノクロームで描かれがちなベートーヴェンにたいしても基本的な姿勢を変えることなく多彩な音色を振りまいている。音楽の構造のパースペクティヴが透けて見えるように明確であることも特徴として上げられるけれど、それは自分の持っている音色の美をより美しく見せるための、特別のキャンバスを自ら用意したと言えるだろう。あるいは美しい響きを追求することで、縦の線のズレから生じる濁りが許せなくなっているのかもしれない。構造の厳格さは2次的に派生してきているのかもしれない。それほどに音色の論理によって音楽が息づいている。とくに第3楽章のロンドなどテーマが変わるごとに音色ががらりと変わり、曲調が鮮やかに表されるあたりは聴き物だ。
●アルゲリッチ。彼女に期待するのは圧倒的なテンペラメント。一瞬の閃きに音楽のすべてが存在するかのような集中力の強さだろう。しかし、彼女がベートーヴェンを弾くときは、意外なほど古典的な均整を大切にしている。クレーメルと共演したヴァイオリンソナタの全集でも同じことが言える。
 大人しく古典の枠組みを感じさせようとすることで曲はモーツァルトのような可愛らしさがベースとなっている。その安全な世界のなかで、ときおり情熱の奔流が見られる。とくに第3楽章でバスが暴走するあたりはハッとするものがあり、危険な女の本領が発揮されていると言ってもいい。随所に小さな危険箇所が顔を出し、生き生きとした音楽を作り出すことに成功している。ライブ感があり、音楽がいまここで生みだされているという臨場感を味わえることについては随一かもしれない。
 卑見では彼女はショパンなどよりはるかにベートーヴェンのパフォーマンスが高度な成功を収めているよう思う。ショパンではタッチは汚く荒れて、全体像も乱れ過ぎることが多い。一瞬の陶酔のために我慢すべきものが多すぎるように思うのだが。
●最後にラローチャ。小さなピアノの女王は手が小さく、コロコロとよく回転する指の能力で地位を築いた。それはモーツァルトにこそ求められる音の粒立ちの良さ。均一で優しい輝きに満ちている。この能力をベートーヴェンに当てはめた時、音楽はかなり優しい表情になる。この曲ではすでにベートーヴェンらしい力強さの世界が構築されているのだけど、ラローチャにそれを期待しても大きな満足は得られない。むしろ、優しい抒情性がどれだけ豊かに内在していたのかを知るのにふさわしい演奏だ。それはデリケートなクレッシェンドや、まろやかなグリッサンドなどの技術的な処理から来るものが多く、先入観で決まりきった演奏をしているものが、いかに怠けていて技術的な探究を行っていないかを露にもしている。人を圧倒する迫力はないものの、人を内側に惹き付けてじっくりと歌を聴かせる魅力に満ちている。

 以上のように、協奏曲という分野は交響曲以上に純器楽的な世界(ソロ楽器の曲芸を見せるのが目的というところからスタートしている)なので、グルダのところでも言ったけれど、文学的な解釈の入り込む余地が少なく、正反対の演奏解釈には出会えない。それでも、一人ひとりの演奏家の個性によって、音楽は千変万化する。どれが一番ということもないわけで、好きな演奏家を見つけて、その個性を楽しむしかないだろう。