『英雄』の演奏比較

2.ベートーヴェン『英雄』

 ベートーヴェンの交響曲を何曲も取り上げても退屈なだけかなとも思うけれど、1曲だけで素通りというわけにはいかないだろう。という訳で『英雄』。交響曲がはじめて音によるドラマになった曲。ベートーヴェンが過去の偉人の影響から脱して完全に個性を確立した曲でもある。ナポレオンに捧げようとしたこともあるけれど、それ以前に音楽そのものが記念碑的存在になった。室内で聴くにはふさわしくないスケールに達してしまった。そのことを忘れずに聴く必要があるだろう。

トスカニーニ/NBCso フルトヴェングラー/ウィーンpo クレンペラー/フィルハーモニアo シューリヒト/パリ音楽院o クリュイタンス/ベルリンpo クーベリック/ベルリンpo スイトナー/ベルリン国立o バーンスタイン/ウィーンpo アバド/ウィーンpo

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 音楽がドラマになる、というのはどういうことなのか。劇的表情を持つということであれば、エマニュエル・バッハに代表される感情過多様式の音楽がすでにある。音楽がキャラクターを持つという意味であればモーツァルトの交響曲などが先例となる。『40番』『ジュピター』『ホルン協奏曲』などなど、オペラのアリアは言うに及ばず。しかし、4つの楽章すべてがそれぞれに明確なキャラクターを持ち、ストーリー展開を感じさせるような起伏があるということになると、いかなモーツァルトでもやや食いたりない感じを否めないだろう。そこが『英雄』の称揚されるところだ。
 そして、ドラマとしての音楽の嚆矢となった曲の開始がいかにも素晴らしい。♪ターラリーラタラララー という主題の前に、ジャン、ジャンと全奏で力強い衝撃が与えられる。これが劇の開始を伝える舞台を杖で叩く音を思わせるではないか。音楽自ら、今からはじまるものがドラマであることを告げている。この衝撃の音がなければゆったりとした主題は平板なものとして受け止められてしまっただろう。緊張して構えたところに、すべるように流れ込むからこそ、その大らかな音楽に同意してしまうのだ。
●この単純なドラマトゥルギーを徹底して用いているのがシューリヒト。速いテンポも目立つが、第1楽章に頻出するジャンの恩恵を極めて峻厳にしかもスリムに鋭く繰り返すことで、長大な楽章を瞬く間に駆け抜けていく前進力を得てしまう。なんとも単純でいながら力強い演奏。これは音楽作りから編み出した演奏スタイル。なかなか超えることのできない典型だといえるだろう。
●『英雄』という逸話から解釈されたものの典型としてはクレンペラーやフルトヴェングラーのゆったりとした演奏。とはいっても『運命』のときほど極端に遅くはない。とくにクレンペラーのものは55年のモノラル録音のもので彼としてはキビギビした演奏。隅々まで堂々として巨人の歩み。どの楽章も突出することなく平均的に深く描いて、物語の重みを手に取って量っているような念入りさを感じる。フルトヴェングラーは『運命』のときほど低音部を強調していないけれど、やはり根底にはコントラバスとティンパニという抜きがたいドイツ音楽志向がある。そのことよって描かれる『英雄』像はどうしても鈍重にならざるをえず、しかも悲劇のほうが精神的に高度なものと見なされ第2楽章に重心を置くので、後の第3、4楽章が軽く浮いてしまう感がある。ドラマとしては尻切れトンボ。
●対極はやはりトスカニーニ。シューリヒトもこの範疇。シューリヒトは大成功しているが、トスカニーニは表面上華々しい演奏なのだけど、速いテンポで各楽章のキャラクターをあまりに明確に描き分け過ぎたために、『英雄』というより『トリックスター』のようになってしまっている。短い時間に問題を起こし過ぎる、ということのようだ。
 トスカニーニの失敗のせいか、快速派は比較的少なそうだ。
●クリュイタンスはやや速いけれど中庸のテンポでじっくりとスタートする。印象としては、全楽章を通じて、じょじょにクレッシェンドしていくような、表現の刺激値を拡大していくような作りになっている。軽い第1楽章だなと思って素通りしそうになると、第2楽章が深い味わいにって、オッと思っていると、次のスケルッツォで華やかになってと、最後のコーダまで騙されながら着いていくという聴体験を味わうことになる。予定調和に陥らないところは名演の一つに数えていいのだろうと思う。
●クーベリックはこのなかで一番遅いテンポの演奏だろう。激しいアクセントを付けたり、アッチェレランドをかけたりもしないので、ともすると生温い演奏のようになりがちだ。その危険地帯を乗り切って、スケール感のある雄大な演奏に仕立てあげているのは、一にも二にも丁寧に演奏すること。第1楽章はリズムの刻みをしっかりとし、踏みしめるように前へ進むことで、緩やかではあるけれど大きな山場を築くことができている。第2楽章ではテヌートを多用することで、葬送の大きな哀しみに耐えて進む、懐の深い偉大な精神を感じさせることに成功している。終楽章、コーダの前の最終変奏からじょじょにテンポを落としながら、音量を豊かにすることで巨大なスケールを現出している。ドラマの理解とともに、音の職人として一つひとつの音の果たす役割や機能を知り尽くしていることが分かる演奏だ。
●スイートナーは『運命』のときと同じようなアプローチ。『英雄』という先入主を洗い落とし、音符の組み立てから、オリジナルに音楽を作っていこうというもの。8分音符は? 付点音符は? という音符が持つべき表情、リズム処理から音楽を作っている。『英雄』史観を去って、物理的な要因から音楽を作る(マルクス史観の影響?)ことで、まったく耳に新鮮な音楽に溢れることになる。交響曲第3番は『英雄』的な振る舞いをしなくなり、いかにも軽やかに舞いはじめる。第2楽章の“葬送行進曲”ですら、暗い表情ながら緩やかにダンスのステップを踏んでいる。第3楽章では8分音符の急速なタタタタという音型がとても面白く響く。終楽章はかなりの速度で勢いのあるダンスを踊りまくる。ただ、軽やかさは最後まで一貫しているので汗の匂いも感じさせずに華麗に舞い納めることができる。端貎すべからざる実力の持ち主。すべてがオリジナルということを考えれば、尊崇を集めるべき大芸術家である。
●バーンスタインはフルトヴェングラーの現代版だと言ってもいい。戦前からの生き残りの精神と現代とで何が変わっているかといえば、響きの好み、趣味が変わったというべきだろう。同じウィーンpoを振っていても、コントラバス優先ということはない。全体に華麗だ。そして、リズム感。鈍重な歩みだったものがスポーツマンのような健脚を見せる。表面上の違いはじつは大きい。では何が共通しているか。それは精神の親和力のようなもの。音楽にのめり込む力、聴衆を巻き込む力。フルトヴェングラーはベートーヴェンの偉大な精神の前で耐えて見せるが、バーンスタインは全身で打ち震えて反応する。その彼の演奏が小さなスケールにならないのは、赤裸々な自分が見られることへの覚悟の大きさに、精神の大きさが隠されているから。そして何よりベートーヴェンの音楽のスケールそのままに感情を振幅させられる懐の深い精神力を備えているからだ。第1楽章の強靱なバネ仕掛けのような推進力、第2楽章の厳かな歌。歌謡性を示しながら全体から浮き上がらないように重厚な響きで錨を降ろしている。第3楽章はまくしたてるような集結部分に代表される勢い。終楽章はほとんど祭なのだけど、それを超えたなにか別の世界に連れて行かれる。人を連れ出すという意味ではハーメルンの笛吹き男のような、魔法の棒さばきと言えるだろうか。
●アバドは同じウィーンpoから晴朗な響きを引き出している。全体の構図はバーンスタインにかなり近い。各楽章、各フレーズのテンポ設定などよく似ている。しかし、音楽は180度違う。アバドはモーツァルトやベートーヴェンなどでは、音楽そのものに語らせようとして、個性をいっさい消しさる作業に没頭しているようだ。この『英雄』からは、どこを探っても土臭い響きやリズム処理は発見できないだろう。あくまで抽象的、物理的な音響設計の世界に還元しようとしている。それはアバドの基本的な個性ではない。ムソルグスキー、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラヴェルなどお得意の20世紀ものになれば、だれよりも色濃く描き出す能力と趣味を備えている。ベートーヴェンに対峙したとき、尊敬の余り、わずかな色づけであっても不敬に感じてしまうのだろう。造形力があまりにも見事なだけに、感情的な表出が乏しくて感動はしにくいが、彼の表現意図を善意に汲み取りたくなる。彼も70代に入り、大病を克服し、大きなポストも返上し自由の身になってから表情が大きくなってきたように思う。今後、カリスマ的演奏を残す可能性があるのはこの青白きアバドをおいて他に考えられない。

 このように見てくると、『英雄』は『運命』以上にイメージに縛られた曲のように思われる。演奏解釈の幅が狭い。これは聴くほうにも当てはまることで、スイトナーのような立派な音楽を聴いても、どこかスケールが小さいと感じてしまうことを拭えない。演奏史が逆に、スイトナー的なものが中心になっていれば、バーンスタインの演奏は何を大袈裟なということになっていたかもしれない。げに先入主ほど恐ろしきものはなし。