C.P.E.バッハ

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バッハ、カール・フィリップ・エマニュエル
(1714~1788)
(164)フルート協奏曲ニ短調

 兄貴とはちがって、エマニュエルは堅実派だったという。フリードリッヒ大王のもとで通奏低音奏者を務め、感情過多様式に傾きすぎて大王に嫌われると、テレマンの後を襲ってハンブルグの教会の監督に転じた。ベルリンで大バッハと呼ばれ、尊敬を集めていたからこそ、当時ナンバー1のポストにすんなり就けたのだろう。
 ポストを順調に伸ばした点では堅実派と言えそうだけど、大王が典雅な音楽を好むのが分かっていて、感情過多様式を開発していったのは、その道からははずれている。いくら大バッハの名声が鳴り響いていても、テレマンの死後、すんなり後釜に座れる保証はないはずだ。たしかにテレマンとは親しく、教えを受ける間柄だったから師から弟子へ順当な引き継ぎとも見える。しかし、人事の決定は音楽家ではなく、市の管理官たちの仕事だ。それぞれの思惑、人脈があって当然。音楽家が望むほど簡単にポストを手に入れられるわけではない。それはモーツァルトの事例でお馴染みの話だろう。エマニュエルがこの難関を簡単にクリアしているということは、事前に十分な下工作ができていたということだ。つまり、エマニュエルは堅実というより、かなり計算高い戦略家なのだ。
 なぜこんなにくどくどと詮索するかというと、彼を特長づけている感情過多様式というものが、そもそも計算高く感じられるから。どうすれば聴衆の気を惹くことができるかばかりを気にした下品な音楽に感じられてあまり好きではない。ただ、エマニュエル一人が悪者なのではなく、時代の雰囲気としてそのようなものを求める空気が強かったようだ。文学の疾風怒涛時代と呼応しているし、ハイドンの若い時代も、同じような感情過多様式を量産している。
 作品によっては、短調の急速楽章に爽快な切れ味が目立って面白いものもある。その代表的なものが「フルート協奏曲ニ短調」。第3楽章のあっという間に駆け抜けていく悲しみは、モーツァルトの走り去る悲しみのような深さはないけれど、爽快な悲しみというちょっと不思議な体験ができる点でめずらしく、その珍妙さもB面らしいかと、ちょっと謙虚になってお薦めする次第。このレコードの演奏はランパルとなんとブーレーズの共演。現代もの専門のブーレーズがエマニュエル・バッハをやっているなんて、ちょっと驚き。おそらく彼のディスコグラフィでもほとんど無視されてきた珍品ではないかと睨んでるのだけど。ランパルの豪奢な響きと、ブーレーズのきっぱりとして、きびきび進む音楽の取り合わせは意外なほどマッチしている。この曲の魅力を思う存分楽しめるだろう。突然断ち切られるような終わりかたの迫力もすばらしい。

ランパル/ブーレーズ「フルート協奏曲ニ短調」SevenSeas GT1090